UZBEKITAN

ウズベキスタンのお正月

少し遅くなったけれど、ウズべキスタンの旅でお友達になったオディさんが、Facebookを通じて、ウズベキスタンのお正月の様子を教えてくれた。あまりに素敵な写真なので、許可を得てご紹介。拙ブログをご訪問いただける奇特な方だけにプレゼントです。

ウズベキスタンもイランと同じ3月21日春分の日がお正月。

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大鍋のなかの茶色のものは麦芽で作る甘い飲み物だそうです。
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サマルカンドの中心にある公園でお祭り。右は学生さんたちがそれぞれお国の衣装で。
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ウズは美人さんがいっぱいです
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おばさんが持っているのは、小麦の芽。大学の学生たちが踊っています。
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日本語学科の学生さんたちがパフォーマンス。
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サマルカンド名物のナンも色とりどりにお化粧しています
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すごいごちそうだ。女性が来ている衣装のかすり模様はUzbekistan独特のもの。
11117877_873249979399166_1791411707   おじさんの妙技もさえる!

 
 

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Uzbekistan 青の都 7

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5月1日

さてとうとうこの旅も最終日を迎えた。本日は11時58分発のシャルク号にてタシケントへ移動。10時半にあらかじめタクシーを頼んである。もともとはタシケントに着いた日に電話をしてきた現地係員のファルフさんとに、セヴァラから駅まで歩けないようだったら車を頼みたいと話していて、彼は場所をしらべて電話すると約束していた。がそれきり電話もないので、宿の不健康なマダムに頼んで電話をかけてもらった。朝7時半、起きてろよという時間なのに寝ぼけ声だったが、タクシーのお願いをしてもらった。これもエージェントに告げ口。

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朝ごはんを7時半に済ませ、タクシーが来るまでまた街歩きとwifiに出かける。昨日とは違う道を通ってみる。途中、オディ君に教えてもらったので、薬屋の看板に入ってみることにする。なぜなら昨日一日歩いたせいで小指の靴擦れが化膿し、血膿がでて靴もはけない。宿の近くで入った店はオヤジが即座に首をふって無視される。次も門前払い。言葉が通じないからこちらも手振り身振りなのだが、それがめんどくさいようだ。痛いし、困った。
最後にもう一軒というつもりで、こんどは大きなこぎれいそうなお店に入ってみる。ふくよかなお母さんが対応中、私を見ると「moment」とまず英語。やった。これはいけそう。

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しばし待っておばさんが「どうしたの」と。傷があるのでバンデージが欲しいというと、まずはでっかい包帯を握りしめ、次にいわゆるバンドエイドを見せてくれるので、「これこれ!」と喜ぶと箱の残り全部持って行けという。驚くと、あなたはゲストなんだからいいのよ、もっていきなさいという。茫然としていると別のサイズの箱もあけて1シート切り取り、これもどうぞと。泣ける。うれしくて何度もお礼をいい、どうしてそんなに英語が流暢なのかときくと、私はイラン人だからという。

イラン人。ああ。憧れのイラン。私、どうしてもイランに行きたいんです、イスファハンとかシラーズとか!と叫ぶと、ローラ母さんはとてもうれしそうに、いつでも大歓迎よ、イラン人はみんな親切だから、旅人には優しくしなければいけないの、と。そうよね、ああ、すばらしきイラン。と勝手に感極まり、ローラ母さんと抱き合い、写真をとり、名刺をもらい、絶対日本で紹介するからと約束し、泣きそうになりながらお店を後にする。消毒液と赤チンキ(実は真っ青だったので青チンキ)のようなものまで未開封なのに持たせてくれてとても心配してくれたローラ母さんのことを、私は忘れない。異郷で困って心細いとき、ほんとうに人情が身に染みる。言葉も人種も違うのに、人間なんだという共感。

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そして昨日のwifiの拾えるカフェに行くも、接続できるのは9時からだという。お茶をのみながらバンドエイドをはったりノートをつけたりして待ったのだが、9時過ぎてもさっぱり接続しない。もう一度パスワードを聴くとどうやらちがっていたらしくやっと接続。メールやインターネットのサイト、ニュースなど一通りみて、ゆっくりお茶をのんでから店をでる。
のんびり戻ってあとはもうすることもない。「あと少しであなたのお部屋の掃除がおわります」とアピールするお掃除のおばさんに、ほんの少しチップをあげて、出がけマダムにも「お茶代だけど」ということで。この人の英語には助かったから。

やってきたタクシーに乗り込んで駅へ向かう。駅の名前も確認していないのだが、多分一つしかないんだろう。タシケント行きといっているし、チケットはマダムにみせていいるから間違いないだろうと思いつつも、やや不安に思いながら車窓に流れる景色をながめる。
20分ほどで着いた駅は、またまたばかばかしくでかい。物々しいチェックゲートを通って、人が出入りしているところにいくと、それはチケット売り場だったので、改めて駅玄関を探す。パスポートと荷物のチェックは全ての旅客対象。

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ここを通過すると駅構内しかいけないのだが、これがなにもない。売店1つと甘いネスカフェしかおいてないカフェのみ。しまったことに時間も間違えたようでまだ2時間ある。しょうがないので甘いコーヒーに1500スムも(とはいえ70円だが)出して1時間ほど粘る。なんの掲示もなく不安なので早めにうろついてみることにする。警官に聞くとタシケント行シャルク号は階段をおりて隣のホームへ行けという。欧米人もぞろぞろいたのでついて行ってみると、ホームにでた。旅人のよしみ、隣に座った白人のばあさんに「ここはタシケント行ですか?」ときくと「わたし旅行者だから」とプイと横をむく。むっとして「私も旅行者だけど」といいつつ気を取り直して「11:58分の列車ですか?」ときくと「しらない」とまたもプイっと。なんちゅー気分の悪いばあさんだろう。他のグループ客と離れて一人でいるところからして偏屈に違いない。やなばばあ。と思わずこっそり日本語で罵りたくなったけど、それをするのももったいないくらい気分悪いのでさっさと離れることにする。

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数人の日本人もきたけれど、まあ大丈夫そうなのでそのまま見物しつつ待つ。駅は絶対に撮影禁止だと聞いていたが、欧米人も日本人らしき人たちもバシバシ撮影している。警官や迷彩服の軍人風も何も言わない。なんだかよくわからない。向こう側にとまっているアフロシアブ号はさすがにかっこよくて、私も写真撮りたかったなぁ。

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時間にやってきたシャルク号、これはブハラからくるので、すでに乗り込んでいる人もいる。車掌がおりてきたのでさっと寄って行ってチケットを見せると、「うむ。この車両である。25というのがお前の席である」と身ぶるのでほっと安心。延々降りてくるひとの列が途絶えるのをまって乗り込む。席には食べ散らかしたゴミやペットボトルがあって、だれかが「ここはオレの席だ」といいそうでドキドキしたが問題なさそう。だが頭上にかかっただれかの上着がとても邪魔である。さきほどの白人団体も私の後方に陣取ってさっそく写真をとったりして大騒ぎ。イタリア人かとおもったら、言葉からするとオランダ人のようである。わたしが眉をひそめたのを写真をとっていたおじさんがちらりと見たせいか、その後は少し納まった。

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時間をだいぶ過ぎてからしずしずと列車は滑り出す。合図もなにもない。やれやれと落ち着いて、それまでのノートを付ける。途中、北海道の10倍か100倍(どっちだ)に感じる果てしない草原を写真にとったりして旅情を楽しむ。が・・暑くなってきた。やたらと。

窓はあかない。空調もない。ウズベクの羊臭を毛穴から発散する男たちが、やがて胸をはだけ、真っ赤な顔をテラテラと脂で光らせて暑さにあえいでいる。まるで捕虜収容所へ向かう列車のようだな、と思いながらわたしも汗だく。ノートでパタパタ仰ぎつつなんとか我慢する。そういえば数人いた日本人はみんな1等らしい。2等の貧乏席は私だけ。まぁこれも旅だからいいかと肯定する。
おなかも減ったけど、アイスクリーム売りが1度回ったきり。最後にスムを使い切るため、タシケントでちゃんとご飯を食べるつもりなのでがまん。目の前のモニターでは、延々とメロドラマをやっていて、どうやら母を亡くした幼い男の子を継母がいじめるストーリーのようである。男の子が死んでしまうシーンに真剣に見入る男、興味なさそうに口をあけて寝ている男を観察するほうが面白かった。

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そうして車窓にビルが表れ始め、予定より40分ほど遅れてシャルク号はタシケント駅に到着。でてみると駅前というのにたいして店もない。とりあえず空港にいくためのスムだけは残しておかねばならないので、居並ぶタクシーに値段交渉をしてみた。ガイドブックでは空港から都心部まで外国人で6000スムとあったので、それをベースと思ったら15000という。そりゃいくらなんでも、というのでいちおう6000とノートにかくと、運ちゃんなに?という顔をして大きくバッテンを付け、10000と書き直す。いやいや8000と書いたところで交渉決裂。なるほどそれなら10000ってところか、とあてをつけ、カフェを探す。2分ほど歩いたところに1軒のカフェを発見。というかそれしかない。おなかも空いて意気揚々、いつものワタシとは思えぬほどごく自然に独り飯へ突入。カウンターにいくと、歯のこぼれた、白いうわっぱりのおっちゃん。

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「マントウ?」ときくと、ああかなしいかな、おっちゃん首を横に振る。最後のチャンスも潰えてしまった。一番たべたかったマントウ、とうとう食べられず。そしてラグマンばっかりすでに5回目。いいけどね、おいしいから。ここのラグマンは掛け値なし、外人料金でもないようで、全旅程中一番やすいラグマンだった。5500スム。これなら残りの所持金で行ける。お茶もいけそうなので頼む。おっちゃん、ナンを半分にしてやろうか、どうだ?と身ぶる。
トータルいくら?と電卓を差し出すとお茶が500、ナンが500で6500という。ディール。ラグマンがでてくるまで待てなくて、ナンにたっぷり塩を振りながら食べるとうまい。それだけ汗で出てしまったということらしい。ラグマンもうまかったので、おっちゃんにお礼がてら写真とろうか?というと「OK」というので、息子と並んでとってあげるととても喜ぶ。よかった、とおもい帰ろうとすると、横から関係ないおっさんが「英語しゃべるか」と。「しゃべるけど?」というと「お前、写真とったんだからバクシーシだ」という。むっとする。あんたに言われる筋合いはない。おっちゃんがとっていいといったから撮ったんだ、というと、おっさんひるんで「わかったわかった。ならいい」とひっこむ。小さな勝利ときちんと主張できた誇りでちょっと嬉しく店をでる。

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となりが雑貨屋。あとわずか残ったスムを使い切らねば、空港までいったら没収されて終わり。お菓子でも、と思うけれどもそもそも袋菓子の形態があまりなく(基本量り売り)、中身がどのようなものか想像が難しい。さんざん迷った挙句間違いなく絵で判断できたウェハース2パックとハードビスケットを1パック買う。キャンディがほしかったのだが、キャンディといっても通じないし、なんと説明してよいのか途方に暮れる。すると珍しがってじいちゃんやら若いのやら寄ってきて囲まれ、どうやらどこから来たかと言っているらしいので「ヤポン」というと受けたらしく「タシケントはグッドか」というようなしぐさをするので「グッドグッド!」とオーバージェスチュアするとニコニコして喜んでいた。こんな触れ合いが心に残る嬉しい一コマになる。ああ、あそこで「ハラショー」といえばよかった。残念。

ワインのイザベラも探したけれど、雑貨屋併設の酒屋にはなく、あきらめて空港に行くことにする。ところがさきほどあれだけいたタクシーが影も形もない。10分ほどまってみるが全然こない。これは大丈夫か?と思った頃やっと1台のタクシーがきた。よかった。最後でいやな思いをしたくないので、白タクはやめて正規表示のタクシーにしようと思っていた。運ちゃんは一言もいわないおじさん。アエロポール、1ミリオン、というと、ウムとうなずくのみ。

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大丈夫そうだなと乗り込む。なかなか巧みなハンドルさばきで郊外を抜け、20分ほどで空港に到着。アプローチがえらく混んでいたけれど、おじさん辛抱づよくあくまで寡黙。ゲートの真ん前で停めてくれた。降りて支払う時、どうせもっていたって没収なら全部あげよう、とおもい、全部のお札を渡す。12000スム。するとおじさん2000を返そうとするのだ。これには感激。はじめて正直な人にあった気がして。だから「これはプレゼント。私はもう飛んでいくから」と身振り、さらにローラ母さんには悪いけれど、へたに薬瓶など持っていて怪しまれるといやなので、消毒液と青チンキもプレゼントする。おじさんは戸惑ったような表情を微かに浮かべたが、どこまでも寡黙に去って行った。

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ゲートでチェックをうけ、無事国際線のロビーへ。チェックインまでまだかなり時間がある。またまたうわさの税関チェックシートを丁寧に書き込み、ひまなので2つある売店をのぞくと不思議なことにスム表示だ。旅行サイトの記事では、空港はいっさいスムは使えないからすべて使い切れとのことだったが、なんとスムでないと買えないという。ドルは完全拒否。情報が違う。ドルしかしかもっていないというと、両替してこいとまで言われてしまう。せっかくがんばってきっちり使い切ったのに、悔しいではないか。とはいえ、ここにあったリシタンの小さい器がとても気に入って、しかも安いのだ。これは買いとおもわれたのであえて5ドル換金して2つかう。一つ5500スム=250円。

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やっとチェックインになったが、心配した通りナン2.5キロがきいて、機内持ち込み制限に引っかかる。ならば取り出して手に持てばいいかというとOKという。意味ないじゃん、結局機内に持ち込むんだから。とは思いつつ、いいというのでそのまま通過、ゲートまでいってまたカバンに詰め込んだ。税関もすんなり通過。空港wifiが大変よく接続するので時間までインターネットで暇をつぶして、またバスに乗り込み搭乗となる。行もそうだが帰りもバス1台で間に合う人数しか客がいない。みんなわかっているようで、安定飛行に移った途端、それぞれ勝手に好きな場所に移動するのであった。夜便だったので、おかげでゆっくり横になって眠ることができた。機内食はあまり記憶にない。食べたかどうかも覚えていない。
そしてなつかしい湿潤の祖国に戻り、大慌てでレンタルルータを返却、バスにとびのって出勤したという次第であった。

初の完全一人旅。しかも社会主義の色濃く残る中央アジアの北朝鮮と言われる警察国家へ。言葉が通じない経験を初めてした、意義深く印象深く、自分なりに成長したと思える旅となった。

次はイラン。ローラ母さんの祖国へ。

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Uzbekistan 青の都 6




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4月30日

7時にたのんでおいた朝食は、サマルカンドナン4切れにおいしいチーズとバター、サラミが2切れずつ、なぜかレモン色の黄味の目玉焼き2つ分と紅茶。なかなかおいしくいただく。 さっそくカメラを肩に飛び出す。まずはwifiのつながるカフェを探しに行く。昨日と同じくナヴォイ広場まで出て、こんどは北へ向かって抜ける。真っ青な透き通った青空に雲が浮いて、ウキウキするようなお天気だ。ipodで聞こえるオペラを自分でも歌いながら幸せいっぱいで歩く。ガイドにあったwifiが拾えるというカフェを探して、同じ場所をぐるぐる3週したけれどもわからず、しかたないので歴史博物館を探そうと歩く。開館まで30分あるのはわかっていたが、ベンチでもあれば一休みと思い、これはちゃんとみつかったので入ってみる。

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すると係員がやってきて、なんだかいうのでオフィスをみつけて聞いてみることにする。おばあさんが朝食中のようであったが、これまたなにやらいいながら盛んに電話をかけまくる。やっとでた結果は、日本語の話せる現地人?を呼び出してくれたことで、彼女曰く「あと30分で開きますから待っていてください」。それはとっくにわかっていることなんですが。 待ってもいいけどやっぱりカフェを探そうと思い、出ようとするとまた別のおばさん。そしてお決まりに話しかけてくる。「入りたいの?」ちゃんとした英語である。「そうなんですけど9時からですから」「大丈夫よ、きて」てなかんじで、彼女は守衛部屋によって鍵をちゃっと取り上げると、博物館のドアをさっさか開けてくれたのだ。なんて融通がきくんだろうとびっくり。電気をつけてさあ、どうぞみて、という。うれしくて思わず写真を撮らせてもらい、展示を拝見する。

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古いスザニを飾った部屋が一番興味深かったが、どこからか出土したらしいガラスの小さい容器は、正倉院に伝わった瑠璃や玻璃を思わせ、感慨深いものであった。ヨーロッパでみてもそうは思わないだろう。一通り見ると、こんどは別棟の元ユダヤ人豪商の家を見せてもらう。ガイドブックにも一見の価値とかいてあるだけに、華やかな凝った装飾は見事であった。かかりのお姉ちゃんもなにかしゃべりたいらしく、片言の英語で名前と年まで教えてくれた。階下に陣取るすがめのおばちゃんからは、写真をとるなら別料金、としっかり取り立てられた。 満足してでたのがまだ9時半。早い。どうしようか。この近くで行きたいと思っていたのがワイン工場である。ならば済ませよう、と探して歩く。が、案の定わからずに、近くのビルにはいって、オフィスにいた女性に外まででて案内してもらって到着。

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左瀟洒なワイン工場。右、路上の馬車。なぜ。

親切でとてもありがたいのだが、仕事はいいのか、と心配になる。ところがせっかく案内し
てもらったワイン工場はロシア語かドイツ語のしゃべれる団体にしか試飲はさせないし、ワインも売れないというので、すごすごと退散。応対したのが若い男の子だったので「wifiの拾える店をしらないか」ときいたらば、この辺はカフェならどこでも拾えるというではないか。それならばレギスタン広場に向かう途中いくらでもありそうだ。ところが1軒目入ったところではダメといわれた。2軒目はwifi-zoneというプレートを確認してから入り、無事接続。これがあるだけで精神的にずいぶん救われる。どれだけオンラインコミュニケーションに依存しているか改めて思い知らされる。今回は特に珍しく体調をくずし、さらに英語が通じないという不便な状態だったので、携帯をもっていってよかった。が、実際にレンタルのルータはほぼ必要ないことが分かった。

写真はナヴォイ広場のまだ人を迎える前の遊具たち。

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この店はしかも、紅茶がとても安かった。ホテルで3000スムといわれていたのが、500スムという。日本円にして25円。どうしてこんなにも同じものの値段が違うのか、この国はわからない。基本的に定価表示という概念がないようだ。こういうことがあちこちで起こる。それが正直な定価制に慣れている日本人としてはとてもストレスだった。貨幣経済の原理に立ち返れば、これだけなら出してもいいというお金をだし、欲しいものを入手するというのが自然な形ではあるのだが。どこに気持ちのひずみが生じるのだろう。 次はレギスタン広場へ。そして昨日と同じく大通りに出ようとしてふとみると、ガイドブックにものっている国立外国語大学の正門前だ。ここには日本語センターがある。

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タシケントの敵をサマルカンドで打つ。ではないが、自分なりに掲げた「日本語教育事情を探る」というテーマなのに達成できずに有耶無耶にするのは悔しいではないか。ここはいってみよう、とこのあたりまで来ると日本人的ブレーキも甘くなってきたらしい。ホイホイと入ってみるとガードマンが学生を見つけてくれ、自然と日本語センターに導かれる。案内してくれた学生はとつとつと一生懸命日本語を話そうとするも全然でてこないらしかったが、ドアの前でやや年嵩の男性に話しかけられる。こちら流暢なので「何年くらい勉強していますか」ときいたら「先生です」と横から。これは大変失礼しました。

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先生は私の経歴を聴き、オタクの学校は年間学費はいくらかと具体的なことに興味を示すので詳しく話をすると、ぜひ留学先として検討したいなどということをおっしゃる。そちらはどうでもよいのだが、わたしは自分が行くかもしれない候補地の視察をしたいわけで、連絡先を交換したあとは3月着任したというJICAの若い男性の先生と話す。彼は直前はブラジルにいてイスラム圏は初めてだといっていた。シニアとは条件も状況も違うだろうが、とにかくウズではネイティブが不足しているとのこと。先ほどの先生も「来年からでもきていいですよ」などといっていた。
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10分ほど見学して邪魔になるので帰ろうとすると、門の前で学生につかまる。なんでも3年正で通訳ガイドを目指していて、練習のためにガイドをさせてくれないかという。それは願ったり。ぜひお願いと一緒に歩き出す。彼の名前はOdilbek Urmonov.現地風にいうとウルモノフ・オディルベク君という。御年28歳、一度社会人もやったが改めてこの大学の日本語通訳ガイドコースに入ったのだという。会話は90点あげてもいいほど流暢である。さきほどの先生よりもうまいかもしれない。連れだってまずはレギスタン広場へ。大学から30分近く歩いただろうか。

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やっと到着すると、飛行機の中できいた噂通り、なんと工事中であった。よくみる3方建物というアングルは全くダメで、入場も掘り返した道を裏側から。入場料はいくら払ったか覚えていないが、一番みたかったウルグベクメドレセは入れずがっかり。だがオディ君は張り切る。それでは始めます、オホン。と咳払いから。とうとうと述べられる詳細を極めた歴史は、時折難しすぎる言い回しのため不明な部分を正しながら、彼もどの表現が適切か選択修正しながらだったので、えらく時間がかかる。が、知識好きには面白い。

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3つの建物とレギスタン広場の由来、そこまでいたるそもそものサマルカンドの歴史から、王朝の歴史、侵略の歴史などこんこんと湧き出る泉のようにオディ君の説明は続く。ティラカリのキンピカの廟内では、250ピースを使ったというメダリカのタイルを購入。一緒にリシタンのお皿も気に入って購入。ちなみにタイルにはメダリカとマヨルカの2種類があり、メダリカは小さなピースを切りぬいたものを1200度で焼きつなげたもの、マヨルカは1枚タイルに彩色で文様をつけたものなのでメダリカよりうんと価値が低いそうだ。リシタンもいい音がする。

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シェルドルメドレセも見たところで、次はアフロシアブの丘を目指すも、喉も乾きおなかも空いた。オディ君の親戚がやっている大きなお店でまた40ドル分両替をしてもらい、お勧めのカフェでお昼を食べる。またもマントゥには振られ、やはりここでもラグマン。ああ、ラグマン。おいしいんだけれど、そろそろ飽きたよ。オディ君はナンとサラダも頼んでくれて、サラダにはパクチーと細ねぎが10㎝ほどの長さでどんと乗っている。それは手でつまんで食べるのだそうだ冬の間弱った体も、春になってこの二つをたべればばっちり回復!という。オディ君はナンをバラバラにほぐしてラグマンのスープにどっぷりつけて食べていた。ここはお礼にごちそうする。

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少し休んで疲れも取れたので、次はすぐ隣のビビハニ・モスクへ。これは中央アジアで一番大きなモスクなのである。修復されている部分も多いが、そのままのところもあり、18世紀におこったという巨大地震の爪痕もそのままだった。八角形の柱は、天国の8つの扉を表しているという。描かれている花はアーモンドで、これは天国の花なのだそうだ。バザールはあとで寄ることにしてアフロシアブの丘へ。

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道路をわたるのがなかなか怖いが、とおりを隔てた向こう側は一番古い歴史のある区画である。もともとはここが街の中心だったところ、チンギスハンに破壊しつくされ、レギスタン広場のほうへと街が移ったのだそうだ。ここの驚きがシャーヒズィンダ廟群であった。ガイドでも大して取り上げられていないのでほとんどノーマークであったが、ここは素晴らしい。小さいが手の込んだ、大切に作られた廟がいくつも並び、癒しの空気が流れている。全旅程中一番好きだった場所だ。

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オディ君はだいぶ疲れてきたようで、私の目的ウルグベク天文台へはバスで行こうという。ローカルバスにも乗ってみたかったのでこれはわたりに舟。乗り方は難しくないが、線が複雑なので行先を特定するのが大変そうだ。表示が読めないし。ウルグベク天文台に着いたのはもう5時近かった。当時の技術と学問の水準に舌を巻き、驚嘆しながらまたバスにのってレギスタン方面に戻る。

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右が1300年初期にウルグベクが作った、60mの弧長をもつ六分儀の一部。

バザールでどうしてもお土産にしたいサマルカンドナンを、オディ君の目利きで選んでもらう。一つ1.2キロというサマルカンドナンを2つ。10000スムで購入。オディ君がずっと持ってくれた。バザールはヒァのそれよりもはるかに洗練された趣。ナン売りおばさんの娘と息子が一緒にいたが、オディ君がわたしの年齢を教えると驚いている。母親はあなたよりはるかに若いのに、と。しかしこの国の驚き方が面白い。その年なのに大きくない!といって感心してくれるのだ。大きくないというほめ言葉は初めてだ。

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その後オディ君のおばさんの店にまた立ち寄り、隣の店でアイスクリームをおごってくれた。いわゆるソフトクリームで、これはおいしかった。この国の人はアイスクリームが大好きらしい。 もう夕闇も迫るので、これでいいよ、といいながらレギスタン広場の前を歩いていると、向こうからやってくる東洋人の女性。これがブハラで挨拶をした件の女の子であった。やっぱり会いましたね、と再会を喜び、もしよかったらということでオディ君を紹介。さっそく翌日は彼女を案内することで話がまとまり別れる。

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オディ君は翌々日、日本大使館からのお客さんを2人案内する大仕事が入っていて、そのために一通りの案内を練習したいようで、もう暗くなるのに、グル・アミール廟も説明だけさせてくれという。暗くなったら歩いては帰れないなぁと思いながらも、興味もあるのでガイドしてもらう。6時過ぎているのにまだチケットは売ってくれて入ることができたが、ここは入ってよかった。なぜなら、壁をうめるアラベスクが紙細工であることを、オディ君から聞かなければ全く知らずに終わっていたからだ。すべてタイルづくりだとばかりおもっていたこの国の建築装飾技術にそんな手法があるとは驚きである。 ここにはウルグベクやティムールの眠る墓石があり、ムスリムのツアー客も熱心に説明をきいているようだった。

外へでて、あとは帰るのだが、最後にwifiをつなげてから帰りたいというと、インターネットカフェへ連れて行ってくれた。ここではモニターで日本語を読むことができ、大変助かった。 最後はタクシーまで手配してくれ、無事宿まで帰り着くことができたので、固辞するところ押し付けるように$20のお礼を握らせた。彼も苦労しているようで、お母さんは働いていず、お父さんも60でそろそろ働けないという。一緒に住んでいるが、お母さんに負担をかけないように洗濯も自分でするから汚したくないと、座るのにもハンカチを広げる気の使いよう。どこぞの息子に聞かせたい。まぁ、そこのお母さんは胃が痛くても吐きつつも歩き続けるくらい体力のあるお母さんではあるが。

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右のおじさんはタージマハル修復の総指揮をとったという高名な方。右の写真、黒いのがティムールの墓。

オディ君は、卒業したら1年でもいいから日本に留学したいという。そうすることでガイド業に箔がつくようだ。日本語のガイド業はいまのところかなり収入もよく、ステイタスもあるらしい。あれだけしゃべれれば日本でもアルバイトもできるだろうし、うまくいくだろう。が、ビザの取得など何かと難しいに違いない。今後とも関わりが続くことも予想しながら彼の成功を祈るのだった。 お昼にがっつり食べたので夜は全然おなかがすかず、オディ君のおばさんの店で一つ買ったビスケットとヨーグルトで晩御飯は終わり。8時過ぎに帰り着いてシャワーを浴びたが、この夜はそばのナイトクラブがうるさくてとても眠れたもんじゃない。しかたないのでテレビでもつけてみようとなつかしいブラウン管テレビにスイッチを入れる。

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ニュースはロシア語。字幕は英語だがめんどくさいのでMTVのような音楽番組に変えるとこれがけっこういける。なかなかいい音楽だし、ヴィデオクリップも洗練されている。凝っているのだがどれもなかなかエロい。ムスリムの国なのに、いいのかと目を疑うほどだ。欧米のものよりもはるかに過激でびっくり。12時まで面白がっていたがさすがにうるさいかと思い、就寝。なぜなら他にも客がいる気配。で、電気を消して寝入りばな、突然ドアノブをガチャガチャと回す音。いよいよきたか。ロシアマフィア。やばいかもと一瞬固まるが、それきり静かになって問題なさそうである。あとは知らぬ間に朝が来ていた。翌朝マダムに言ったら、いつも1号室に泊まっているおじさんが今回わたしが入ったあとで違う部屋となったのだが、彼が間違えたのだろうとのことだった。迷惑な。。。

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Uzbekistan 青の都 5

 

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4月29日

朝は10時にピックアップの予定だったが、またもドライバーのおじさんは難色をしめし、9時じゃないと大変だというようなジェスチュアをする。本日の予定は、ブハラからシャフリサーブスを経由して、峠越えでサマルカンド入りである。移動で時間がかかるのはヒヴァ―ブハラ間の砂漠越えだけの認識だったので不審に思う。タクシー代も前者が$220に対し、本日は$200である。が、1時間いても大した差でもなく、見るべきところは大体みたので良しとした。

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朝ごはんは、コミル自慢の、200年前の古い民家そのままのアンティークな部屋でとる。たしかに趣深い。が、食事はマリカの半分も種類がなく、値段のわりに貧相であった。どちらにしても大した食欲もないのでお茶だけたくさんいただいて散歩にでる。サマルカンドのビビハニモスクに次ぐ大きさのモスクを見る為である。本日は平日なり。学校へ急ぐ子供たちが多数歩いている。

この国は学校にはおしゃれをしていっても怒られないらしい。女の子はこれでもかというほどおおきなリボンや髪飾りをどっさりつけ、ヒールのついたようなおしゃれ靴をはき、ピンクや赤のファンシーなリュックサックを背負っている。さらに驚いたのは校門前に露天商のおばさんが店をだしていて、なんとうりものはお菓子のようなのだ。子供らはむらがり、めいめいに買い物をしてから門をくぐっていく。子供はどの子もほんとにかわいい。白人系もいれば黒髪の彫の深い子もいるし、さすがに文明の交差点、人種のるつぼである。

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1時間の持ち時間をぶらぶら歩きつぶしていると、向こうから東洋人の若い女性。これまでも東洋人はちょいちょいは見かけたけれど特に声をかける気にもならなかったのに、この人にはなぜかおはようございますと、いってみた。すると向こうも「ずっと同じルートでちょいちょいお見かけしてますよ」とわたしを認識しているようだった。聞けば翌日サマルカンドらしく、わたしとは1日行程がずれているが、また縁があれば、といってすれ違う。ありそうな気がこの時はっきりとしていたのだ。

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この2枚は前号に出し忘れたカーペット織のお嬢さんと、ラグマン、地ビール。

宿にもどるとすでにドライバーはきていた。フロントに鍵をわたして最後にメールチェックをして車に乗りこむ。どうやら到着時にたのんだ紅茶の代金は忘れているのか請求されないらしい。この国は紅茶がおいしい。いくらでも飲めてしまう。緑茶も同等に飲むようであるが、チャイの文化である。店名はカフェといいながら、コーヒーははっきり「ネスカフェ」と表記されたもの以外供されない模様。コーヒー独特の香りなどはどこであれ一切かぐことはなかった。アラビアはコーヒーなのに、ペルシャが分水嶺なのだろうか?

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昨日の雨でぬかるんだ道を抜け、車は一路シャフリサーブスへむかう。本日は砂漠だけでなく、途中から豊かな田園風景が広がり始める。背の高い、ほっそりしたポプラや白樺が姿うつくしく続く並木。すっきりした林。なだらかな牧草地。ゆったりひろがる果樹園。リンゴやアーモンドや梨の花が盛りである。そこここに、だれのものか、のんびり勝手に草をはむ牛にロバに馬。木陰で一服する老人たち。こんなにも美しい、のどかな、牧歌的な風景にであえるとは夢にも思っておらずに、たいそう嬉しく思う。なんどもカメラを向けたい衝動に駆られるのだが、停めるよういうのがはばかられるほどドライバーはとばす。この理由はサマルカンドについてからわかったのだが、彼はどうやら、同日中にブハラにもどらねばならないらしく、それで出立も9時でないと大変だと主張したらしい。もどるのは彼のマターであって私には関係ないのだが。これもエージェントに告げ口した。

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とはいいながら思いがけない美しい風景を見られたことでうっとりと大満足し、ひとり楽しむとやがてシャフリサーブスに到着。ここはアムール・ティムール生誕の地で、2つほど廟があるのみの小さい街であるが、とりあえず休憩もかねて停車。15分ほど自由時間となる。が、急いで戻ったのにドライバーがいない。まつことさらに20分ほど。やっと現れ、さすがに申し訳なさそうな表情。多分ごはんをたべてきたのだろう。こちらはだいぶトイレにいきたくなる。途中なんどもカフェ?トイレ?と聞かれるが、どちらも要求しないことにドライバーは不思議をかんじていたらしい。その後峠を越える前に警官が2人乗り込んできて、何事かとおもいきや、峠の関所まで乗せていけということらしかったのだが、この二人にドライバーがあれこれしゃべっている言葉のなか唯一聞き取れたのが「ノートイレット、ノーカフェ!」という部分であった。さぞや彼は「この外国人の女は変わっているのだ」ということを力説していたのだろう。

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それはさておき、この峠がまた大変に素晴らしい。春浅い山肌には、新芽の柔らかい緑があふれ、基本はすっと立ち姿の美しい針葉樹なのだが、そのあいだにアーモンドや杏などの広葉樹が広がっている。貧弱な表現力ではどうにも表せない、柔らかな穏やかなかわいらしい美しさなのだった。道端にはたくさんのシャシリク売りが店をだしていて、ドライバーは食べたそうだったが、昨日のサモサ代をどうやら出させられた気がしていたのがしゃくだったし、わたしは羊の匂いは厳しい体調だったので、食べるとは言わなかった。

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途中どうやらサマルカンドまでは持ちそうにないので、廃墟を利用したトイレに立ち寄る。峠まではとてもいいお天気で、初めてといっていいほどの青空に感激していたが、2000m弱を超えた途端にガスが広がり、霧雨が降り出してしまった。サマルカンドには4時半ごろついたが、どんより薄曇り。途中、山のように積んだルバーブ売りがたくさんでていた。とにかく樹木も草原も花も岩も美しかった。緑濃い日本にもってきても1級の景勝地とされるだろう。振り向くと遠くパミール高原と思われる雪の高みがうっすらと望まれた。これがヒンドゥークシュを経て、K2を擁するカラコルム山脈へと続き、それは更にはるか東のヒマラヤから中国南部の高峰の山脈へとつづくのだ。

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サマルカンドの宿はとりあえずとったセヴァラホテルというところ。ヒヴァとブハラは見直したり相談したりしたのだが、ここだけは1度見たきり、なんのフォローもしていなかったので場所がどの辺だかもさっぱりわからない。エージェントも聞いたことないみたいで、不安がつのる。案の定、ドライバーがたびたび尋ねてもぐるぐる回るばかりでなかなか見つからない。ほんとはこのおじさん、チョンボが多そうだったので、本日のチップは思いきり少ないつもりだったが、ここで頑張って見つけてくれたのでやはり前日同様1割渡した。

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やっとみつかったのは路地裏を入り込んだ、大きいけれどひとけのない民家風で、やたら咳こむ不健康そうな女性がでてきた。予約のプリントアウトをみせると「うちは2つあるんだけど、どっちかしら」とこれは流暢な英語でいうので朝食付き$30だけど、というと、まぁ、いいわ、じゃどうぞ、みたいな適当な対応。こちらも泊めてもらえればいいので鍵をもらう。家の中は明かりもなさそうな暗がりで階段には普請中のような木切れがおきっぱなし。言われた1号室にはいると思わずがっかりする。そこはカーテンもベッドカバーもうすっぺらい赤い布地の、なにやらおじさん臭い、小さい狭い部屋であった。もちろんバスタブはなくシャワーのみ。わびしい。昨日がブハラのセミスウィートであったのでその落差に落ち込む。しかもこの宿、さびしいばかりでなく、中心部からえらく遠い。レギスタン広場までは普通なら歩いて行こうとは思わない距離だ。多分6キロ超。でもいまさら荷物をひっぱって宿を探すのもいやだし、英語が通じるのでいいことにする。つくづく、こういった肉体精神両面にこたえる状況は、若いうちだなあと思う。このあたりすでにヤキが回った証拠であろうか。そういえば今回は初めて醤油が恋しいなぁと思ったのも自分で驚き。

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とりあえず現地通貨が不足なので、翌日の観光のための資金として20ドル両替を頼む。レートはタシケントよりもよいらしかったが、渡された札束を数える気にもならず、言われた通りに受け取るしかない。場末の安宿そのもののセヴァラホテル、両替にいったのはボスがやっているらしい小売店で、ボスはロシアマフィアの下っ端のような目つきの悪い痩せたオヤジ。不健康な女性はまるでヤクで操られているかのごとく、目つきの悪いオヤジにびくびくしている様子。ダークだ。店にたむろしている、これまた目つき顔つきの悪い男たちを見ないようにして、さっさと出て行く。宿の場所をよくよく覚えて、夜がくるまでとりあえず探検にでる。

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Img_2500目指すはまずナヴォイ公園である。ここまでの道を確実にすればあとは街中観光地なので楽勝と思われる。40分ほどゆっくりあるくと正面に地図のとおり公園。なかなか手入れのよい綺麗な公園である。夕方のそぞろ歩き、デート中のカップルなどを横目にみながら建物と地図を合わせながら歩く。やがて、グリ・アミール廟を発見。入場料を払って中を観るほどの時間もないので、外から夕泥む姿を写真に収めてブラブラ帰る。行きとは違う道を歩いてみる。大きなメイン通りに沿って行くと、通りがかる若い子が、ニヤニヤしながらハローだのこんにちはだの声をかけてくる。

少しおなかも空いたので、適当なところがあれば入ってもよかったのだが、これぞと思うところに当たらぬまま、ロシア正教会など撮影しつつ戻る。宿の近くに見定めてあった果物を売っている商店があったので、ここでオレンジを買おうと思った。ついでに中をみるとヨーグルトやパンなどもあるので、水と一緒に買うと、なんと3万スムという。そりゃないだろう、と思ってはみたものの、土産物とちがい、一つに対する値段ではないのでまけるというのも難しそうだし、要するに面倒なのでどうでもいいことにする。店番は少年だったので、少年ならば誠実かと思いきやとんでもなく、彼は立派な商人になる素質があるらしかった。

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部屋にもどって、ヨーグルト2パック、オレンジ、ビスケットのようなもので夕食とする。シャワーの出は悪かったけれど温度は十分に熱く、ちゃんとあたたまってさっぱりすることができた。明日は最後の丸一日歩ける日なので、しっかり寝て準備をしようと思う。

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Uzbekistan 青の都 4

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朝8時にピックアっプの予定だったのに、7時からOPENの食堂に一番乗りで朝ごはんをたべていると、マネージャが「ドライバーがきたよ」と告げにくる。なぜ。大して食欲もないが、食べねばと思い、ゆで卵とパウンドケーキ風のパンをすこし食べる。生の杏ジュースとヨーグルトがおいしい。余談であるが、マリカではwifiの接続が悪く、マネージャにパスをいれてもらうとつながるが、一旦離れるとまたつながらなくなる。たびたびお願いしていささか辟易。他の泊り客をみていると、appleなどは問題なさそうであった。やはり機材も国産、キャリアも純国産ドコモなのが不利のようである。出る間際もう一度メールチェックをして車へ。
するとドライバーのほかに若い男がひとり、助手席にいる。なんだろう?ついてきたおじさんがいうには、彼をウルゲンチ駅まで送るのだそうだ。きいてない。なぜわたしの乗る車に乗るのだろうか。べつにいいけど。そのせいで出立が1時間早かった模様。エージェントにきっちり告げ口した。

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本日は一日かけて砂漠を渡り、ブハラへ向かう。キジルクム砂漠を越え、アムダリアを渡る。これがメインイベントのひたすらな移動日なのである。ところがドライバーはまったく英語を解さない。これが不満であった。道中目につくものの質問もできずフラストレーションがたまる。ipodがなければ退屈で死にそうであった。ヒマなのでノートをつける。砂漠は黄色い細かい砂であるが、ヨルダンの無慈悲な砂漠とは違い、ほぼ全面的にラクダ草やモサモサした小木に覆われ、ところどころ黄色い花もさいている。これがネギ坊主を巨大にしたようなもので、やたら目立つのであった。険しい岩山もなく、なだらかな砂丘がつづいて、優しげな砂漠だ。

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道はひたすらどこまでもまっすぐ。時折検問があって、そこだけはスピードダウンするがほぼ100キロペースで走る。行きかう車もほとんどない。やがてアムダリア。写真をとれ、と車を停めてくれる。車内のカバンをきにしながら、薄曇りの空の下の広大なアムダリアをながめる。これがそうなのか。名前をきいては甘く胸がうずくような感覚を覚えていた、あのアムダリアなのか。近代的な橋がかかっていて、砂州の多い河であった。この河が紀元前から人々を誘い、導き、その流れが興亡を左右したのだ。ヒヴァの街もこの河の流れが変わらなければいつまでも小さな集落でしかなかったのだそうだ。それが世界遺産としてうじゃうじゃと人を集める場所になってしまったのだ。

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ドライバーもお腹が減ったらしく、昼過ぎ路傍のテントのような小屋に入ってサモサを食す。軽いパイ生地に羊と玉ねぎ、香辛料でまとめたひき肉が詰まっている。あつあつで、これは本当においしくいただくことができた。外の窯をみせてもらう。高さ1m未満、底面直径60cmほどの縦長の窯に、サモサのくっつく大きさの穴があって、そこにひとつひとつ張り付いている。素朴だが、これが全道中一番おいしいと感じた食べ物だった。が、支払6000スム。高くないか?これは私の分だけではないだろう。。。

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変わらぬ景色の中、やっと4時半ごろブハラに到着。これも直前に変更した人気のコミルホテルへ。ちゃんと予約が効いているか不確かだったがこちらも問題なくチェックイン。なんと$120という、わたしにしては贅沢なセミスウィートだが、1泊くらいいいだろうということで楽しむ。さすがに広く綺麗で大満足。古いスザニがいたるところに飾ってある。この日も午後から雨が降り出して到着時も結構な雨。とりあえずレギストラーツィアが終わるまでお茶をのんで待ち、5時過ぎから雨の中探検へと出かけた。

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カッパと雨帽子をもってきてよかった。コミルは中心から少しだけ離れているが、またも貧相な地図をたよりだと全然わからない。迷路のような路地が記載されておらず、かなりうろうろして、男性に聞いてやっとわかったカラーンミナレット広場へいく。ここに観たいものが集中している。ウルグベクの設立した3つのメドレセのうち一番古いのがここブハラのものだという。入口には「本を友とする人々に常に神の恵みへの扉が開いていますように」との言葉が刻んであるのだ。文様になったアラブ文字は美しく見とれるばかりである。が、雨空をバックの青いタイルはいまひとつくすんでいる。

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メドレセに入ると、さっそくスザニやのおばさんに声をかけられる。どうせ買うつもりだったし、雨で外もあまり歩けないので、ここでしばし会話を楽しむ。おばさんは常は小学校で子供に算数やら国語やら教えているらしい。わたしもちょっとした先生だよ、といいながらおしゃべりし、5枚ほどクッションカバーを購入。外にでると嬉しいことに雨が上がっている。光は足りないものの、カメラが濡れるのを気にせず写真が撮れるようになった。
雨のせいで人もほとんどいない静かな遺跡をじっくり味わえる。その細工のなんと見事なこと。どれだけの職人が腕を競い、技術を駆使してこの美しい建物をつくったことか。精緻で妥協のない仕事に感嘆せざるをえない。

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バザールでまたもスザニ売りに足を止める。なぜなら刺繍を学んだ私にとって、これは日本語教育と並び掲げた今回の旅の目的だったのだから。こちらのほうがクオリテ  ィが高い。もちろん値段も高い。そこをやりとりしながら、4枚ほど購入。古い手書きのコーランを売っているおじさんとおしゃべりしたり、ぶらぶら冷やかしながら写真を撮り、楽しく歩く。このころには体調はかなり回復。いつもの元気に近い状態になって食欲もでてきたので、やっと本気で地元料理をたべてみようと、ガイドブックお勧めのお店をさがす。が見つけられず。

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ラビハウズをかなりはずれたところの店に入ってみる。もちろん地元民ばかり。マントゥを食べたかったがないというのでしかたなくまたラグマンとビール。しばらくすると4歳と2歳の男の子をつれた家族が相席してきた。父親は若い東洋人。母親は金髪碧眼。話しかけてきたところによると、北京在住の中国人とカザフ出身の奥さんらしい。彼女がロシア語ができるので助かるというだんな。1ヶ月の予定でウズの旅をしているのだそうだ。中国人らしく、換金レートから始まってお金の話ばかり、まぁ、驚くふりをしながらきいていたが、私としてはあまり興味のない話だ。旅行者がぼられたり損をするのは常のこと。多少あがいたところでしょうがないと思っているからだ。1時間ほど、それでも英語での会話を楽しんで別れる。というのも本当にこの国は英語が通じない。そうなると全く意思の疎通がままならぬ。こんなにこのことが不便だとは初めて思い知った。

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ラビハウズはブハラという古都の中心をなす池である。小さな池だがまさにオアシスの街の象徴であるようだ。ほとりに建つ鳳凰を描いたメドレセ。偶像崇拝を禁じたイスラムの教えに反するという意味では、サマルカンドのシェルドルメドレセについで有名な建物だ。緑あざやかな葉の合間に見え隠れする文様はたいそう蠱惑的だ。ごはんもおわって帰り道につくと、西の空にわずかに茜の残る宵闇に変わりつつあった。

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あたたかな明かりがともる古都を、ちょっと写真家気取りでシャッターを切りながら楽しく宿に戻る。レセプションの青年が、団体がいるからできた今夜のうちにチェックアウトしてほしいという。別に問題ないのでそのようにする。部屋にもどってお風呂に入ろうとするとバスタブキャップがないのでくれるように頼む。しばらく忘れていたようだが、探してくれた。前半退屈だったもののブハラについてからは充実した散歩を楽しめた余韻に浸りつつ就寝。寝付いた頃に駐車場で騒ぐ声と車の騒音、猫のケンカなどに起こされたがそのごは熟睡。

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Uzbekistan 青の都 3

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4月27日

朝もう一度お風呂に入ってさっぱりし、タシケントで買ったジュースで様子を見るとおなかもすいているようないないような・・。一応食堂にいってみる。でんぷんやたんぱく質には全く惹かれないが、トマトがおいしそうだったので4切れほどもらって、山のように塩を振って食べる。これは体が求めるようでおいしく食べられる。まだ熱っぽいが今日は街を見なければ。

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ところが昨日から天気が悪い。今日もどんより曇り空である。年間300日晴れるという太陽の帝国を意味する「ホラズム」地方であるというのに。まずは共通入場券を買わなければいけないようなので、西門へ向かう。窓口を想像して探すがわからない。もう一度地図をみて振り返ると、ぼろい机にすわったおばさんがそれらしき紙束を手繰っていた。どうやらこれらしい。共通券と撮影券トータル17ドルだかなんだか支払う。ブラブラあるいて、一番見たいところから行こうと「スザニセンター」へ向かう。

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イチャン・カラの中は直径1キロもないような狭い城郭で、縫うような迷路も人3人ならべないほどだ。そこになんと不幸にも、どうやら国内の子供の修学旅行らしき団体があふれているのだ。古都情緒を味わうには程遠い。どの子どももありったけのものを身に着けて精一杯おしゃれをして、手に手にアイスクリームを持ち、露天のおもちゃのアクセサリーやら綿菓子やらおみやげものに群がっていて歩けやしない。女の子のファッションで興味深いのは、日本ではとっくの昔に絶滅した、濃い肌色のぶあついタイツがまだ生息しているらしいことだ。あの、おばあちゃんがはいてるようなやつ。足首あたりに撚れたしわを作りながImg_1708_2ら、不健康な肌色の分厚いタイツを、初々しい若い子がはいているのがなんともほほえましい。

おじいさんに聞いたら、女の子二人に「案内してやれ」と言Img_1709いつけ、この二人が嬉しそうに先に立ってくれた。でも全然違うところに連れて行ってくれた。ありがとね;;

Img_1710騒ぐ子供軍団に辟易しながらも、たびたび人に尋ねながらスザニセンターをやっとみつけると本日休館。がっかり。一人旅の悲しさは、あらかじめわかっている人に連れて行ってもらうツアーやガイド旅と違い、行きたいところの発見に時間が かかり、失敗に終わることが多いところだ。

案内板もなく、建物に張ってあるプレートはウズベク語とロシア語のみ。なにがなにやら。適当に目についたそれらしき建物にブラブラはいりながら、二つめの目的ジュマモスクを見つける。ここも子供の群れに占拠されていて、数百年を経てなお息づく木彫りの柱の静謐な雰囲気を楽しむべくもないので、写真をとって退散。ここは泊まりたかったミルザボシの近く。マリカにも近い。だんだんと城郭内の構造がつかめてきたので、人気のある遺跡をいくつか見る。中東では見られなかった、美しいイスラムの、青いタイルで作られたアラベスク文様、これがみたかったのだと、一人喜びに酔いしれながら写真を撮る。しばし歩いて疲れたので、マリカにもどってまたトマトサラダと紅茶の昼ごはんをたべる。

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でるとなんと雨が降ってきたので、子供のいなそうな音楽博物館をみつけてブラっと入り、ヒマそうなおばちゃんにつかまってひとしきりウズベクの古楽を聴く。ヒヴァの古楽は、雅楽の笙とそっくりな音色の横笛の音楽で、メロディにも類似点を感じる。ブハラの音楽というのは、弦楽器をふんだんに用いたもっと華やかなものだった。シタールに似たものや、琵琶の原型と思しきもの、マンドリン風のものといろいろな種類が使われていてこちらの方が好みだったので、結局10ドルというのを6ドルにしてCDを1枚買う。ここでしか買えない素朴なおみやげ。なんのかざりもない袋にポイといれられただけのCD。

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奴隷の売買をしていたという王宮の広場や、件の古い音楽に合わせて踊り子が舞ったであろう玉座の間や、薄暗い中いきなりコーランの祈りが始まったモスクや、路地裏で机をだしてもくもくと木彫り作業をする少年二人に見とれたりして、だれにも邪魔されずにしみじみと旅を味わう。さすがにこの古都が一番シルクロードをそのままに残した街だった。
イチャン・カラそのものはたしかにすごい。よくぞ残ったと思う。けれどもその狭い場所がまるで祭りのセットのように感じられたのは、あまりに観光化されていたからだろうか。
きっとアルハンブラなどもそうだろうけれど、だれもいないその場所を一人静かに味わえたらどんなに幸せだろう。そんなことはありえないけれど。

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人はたしかに擦れていないと感じるし、イキイキとした目で珍しそうに話しかけてくる。親切でもあり、いい顔をしている。その意味ではまだまだ訪ねて嬉しい国といえよう。そしてこの国ではニイハオではく、コンニチハか、なぜかボンジュールであった。どうやらアムール・ティムールの研究でフランスとゆかりが深く、フランス人客はぬきんでて多いようだった。陸続きのヨーロッパからは一番奥地の異郷、アジアなのだろう。

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いつの間にか空は晴れてきて、強烈な光が降り注ぐ。これぞ砂漠の、シルクロードの古からここにある光なのだ。崩れかけた門を抜け、城外のバザールをのぞいてみる。ここで暮らす人々の変わらぬ毎日の光景が広がる。インディカでなく丸みをおびた米が詰まった袋、色をつけて一つずつ数えながら売られている野菜の種、抜いたばかりのようなねぎやパクチーの苗、つるした肉、たくさんの種類のビスケットの並ぶ店、靴、洋服、ベビー用品、金物、時折電化製品の店、果物、あらゆる生活に必要なものが売り買いされている。男物のサンダルはなぜか一様に「GUCCI」ブランド。ジャージは日本のように「アディダス」や「ナイキ」ではなく「フェラーリ」「ポルシェ」が人気のようであった。お姉ちゃんと弟が店番をしているビスケットやが気になったので、どうせ買うならあの子たちのところで買ってあげようと、探して戻る。

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弟がいて、少しずつでも買えるかと聞いてみたがやはり通じない。うーむ、どうしよう、と思っているところへおっかさんが飛んできた。さすがに大人。指さしで商売をまとめる。これを1個、これを3個、のようにして袋に詰め、最後に量って清算。多分旅行者プライスだがかわまない。写真をとってもいいかというと、おっかさん「ちょっとまて」と身振りして髪の毛をなでつけてからポーズ。見せるとどうやら気に入らないらしくNGを出され、撮り直しとなる。次はOKをいただけた。ついでにガイドブックにあった大麦で作った飲み物を探しているのだが、と見せると、あっというまにワサワサおかみさんたちが寄ってきて、「これは知らない」と口々にいう。どうやらキルギス独特の飲み物らしく残念。これまたついでに写真を、というと、みんな一斉に恥ずかしがって散ってしまった。

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やっぱり生活のあるところは面白い。ここでも人間が、その地独特の伝統に基づいたやり方で暮らしている。毎日生きている。おしゃべりをしたり笑ったり泣いたり。嘘をついたりだまされたり、怒ったり喧嘩したり。この国は物資も不足せず楽しそうに暮らしているようで、嬉しい気持ちになれる。

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そしてわたしはあこがれのシルクロードのざくろをみつけ、どうしても食べたくて買ってみ る。ついでに食事代わりにバナナと梨もかってた。もちろんこれも外国人プライスなのだろうが、それでもいい。部屋にもどってたべたザクロは、それはそれは甘くて多汁で、涙がでるほどおいしかった。

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バザールからもどってもなお、まだ日は高い。夕映えのヒヴァは素晴らしいからと勧められていたので、それを待つ為にマリカの外のチャイハナ風カフェでお茶を頼む。桟敷風の座席を一人で占領、横になって風を感じ、空を見てノートをつけながら、ここでも旅を楽しむ。吹いてくる風は遠い昔から変わらず旅人を癒していたのだろう。静かな時間が過ぎる。
ゆっくりしたけれどまだまだ日は沈む様子もない。寒くなってきたし部屋に戻ることにする。
もう一度出る気力もなく、果物でごはんにしてお風呂にはいって早々に就寝。何度も目が覚めたが、この日たっぷり眠れたことで翌日から回復に向かうことができたようだった。

 

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Uzbekistan 青の都 2

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4月26日

早く目が覚めてまたお風呂につかりゆったりするも相変わらず体調は激悪。が、あれこれいじったらなんとかwifiは拾えるようになり、メールを発信できたことで精神的には救われる。
朝ごはんを食べにいくと、これまたばかばかしく広いダイニングに、巨大な丸テーブル。なんでもかんでも大きいのだ。ロシア文化の影響をはしばしに感じる。モスクワでもそう思ったけど、せせこましい日本人としては非常に落ち着かない。すべての椅子には大きなピンクのサテンリポンが結んである。妙に少女趣味。ロシア人はこういうのも大好きだ。真っ白なコテコテの過剰な曲線装飾やらピカピカの金箔やら。

あいかわらず食欲もないところだが、食べねばと思い、ヨーグルトとジュース、シリアルを少しに干した杏などもらってきて食べ始める。所在ないのでノートを付けながら食べていると、だれもいないダイニングなのに若い東洋人の女性が相席してくる。珍しい人だと思いつつ、特に注意を払わなかったら「日本人のかたですか」と話しかけてきた。20代と思しき彼女も一人旅で、どうやら同じ飛行機で到着した模様。私とは逆ルートで、本日列車にてサマルカンドへ向かうのだとか。わたしはヒヴァへというと、ヒヴァまでは行く時間がなくて残念といっていた。
ごはんのあと、レギストラーツィア証明とパスポートを受け取り、まずは両替。100ドル替えてくれというと「多すぎる」と断られる。しかたなく50ドル替えてもらって、輪ゴムで止めた分厚い札束をもらう。12万スム弱。換金はできないから使い切るよう念を押される。いつもの感覚で外貨用に普通の財布を持ってきたのがいまさらながらアホだったことに気が付く。この国では財布代わりに小型のクリアケースを使うことになった。とにかくいかなる支払にも10枚、20枚という札を数えねばならぬ。なんとも非効率的かつ怪しさを否定できないし、それを受け入れるのがデフォとなっている模様。デノミすればすむことじゃん、と思ったりする。

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お迎えの11時まで散歩にでてみる。まずは石村さんの教える東洋学大学をみてみようと歩くが、まったく地図が合わない。どこぞの庭園に迷い込んで出られなくなり、この国の基準からすると小柄な体を利用して鉄柵の下からはい出したところ、正面に警官らしき人物を発見。疑われたら面倒なことになっていたかもと思い至り、やや肝を冷やす。

2度同じところを回ってもわからず、ギブアップ。しょうがないのですぐ近くにあったウズベキスタン美術館に行くことにする。が、いってみるとダメダメ、と追い払われる。close,openも通じないがとにかくダメっていう。ガイドブックをみると10時からとなっていて、たしかに現在9時。あきらめて9時から開いている工芸博物館へ行ってみようと思う。がこれが相当遠い。体調は相変わらず悪く、10m歩くと座り込みたくなるほどなのでどうしようかとおもったが、時間も余るし部屋に帰って寝ているのもしょうがないので、ぼちぼちでいいから歩こうと思う。実際、なんど座り込んだかしれない。

いつもの半分以下の元気でなんとか歩いてみるが、やはり地図と合わない。通りすがりの人も英語がわからない。かなりぐるぐる探して、これまたギブアップ 。悲しくて泣きたくなる。もう歩いて帰る元気も全くない。しかたない、地下鉄に乗ってみようと思う。これも噂に高いめんどくさい乗り物で、警官によるチェックが厳しいというが、背に腹は代えられず勇気を出す。地上出口に立っているいかめしい警官ににらまれながらまたも馬鹿でかい階段を下りるとひとけのない窓口。一律800スムのチケットを買い、ゲートを通ろうとするとさっそく呼び止められる。これは現地人、外国人問わずのようだ。のろのろと遊び半分らしくパスポートを眺められ、カパンのチェックはなく通過を許可される。3本バーのゲートをくぐるとき、チケットを吸い取られて一瞬どっきりするが、番人のおばさんが頷くのでどうやらよさそうだ。

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ひとけのないホームは薄暗く、大きな重苦しいレリーフが等間隔で飾ってある。威圧的かつ荘厳。ロシアの地下鉄を思い出す。各駅とも装飾は独自で重厚壮大である。が、すべりこんできた列車はぼろかった。一駅いって乗り換える予定で乗り込む。慣れてくると大胆になって楽しめる。次の駅で別路線に乗り換えたつもりが、なんだか間違えたみたいで、表示が違う。駅員に駅名を連呼してみるとあっち、と指差すのは今降りた路線。しかたない、辛い体に鞭打っていってみると詳しい案内板があって、なんとかホテルまで帰れそうだ。念のため隣に立っていた巨大なおじさんに、ホテルの駅名をいってみると、自分も同じ方向だからついてこい、というような身振りをする。ちょっと安心して、こっちだ、というとおりについていくと、お前は3つ目だと指を3本たてて教えてくれる。反対方向に乗り込んだおじさんに、最後まで手をふるとにこにこしてくれた。ところが気が付いた。3つ目というとわたしは今いるところは数にいれない。おじさんは?案の定、今いるところを一つ目と数えたようだった。降りる駅はわかっていたから大丈夫だったが、こんなところに異国であることを感じる。 

無事降りて地上に出、ホテルにもどる。荷造りしてチェックアウトをしていると、声をかけられる。空港へのピックアップだ。きっちり時間より前にくるところは生真面目である。ところが支払が滞る。米ドルで払おうとしたら、booking.comからの予約はカードでないとダメという。しかもVISAでないとだめという。しょうがないのでANAカードを出すも、暗証番号をいれろという。そんなのない、というと、いやいや、設定してあるという。えー?といいつつ試すのだが、どれも拒否される。ダンナにメールしてきいてみろといわれるのだが、個人のパスワードを夫といえど知るはずがないではないか。こまってもう一度やってみると、なんの塩梅か今度はうまくいき、やっと支払完了。ウルゲンチ行きの国内便に乗るために空港へと向かう。

国内便ロビーは石村さんから聞いた通りなにもない。売店ひとつない。Eチケットを提示してすんなりチェックイン。うるさいイタリア人の群れに交じってバスに乗り込み搭乗。プロセスチーズを1枚はさんだだけの、ボソボソのサンドイッチがでる。もちろん食べない。そして機は何事もなく無事到着。手荷物も持ち込みなのですんなり一番で外に向かうと、なんだか荒れた裏庭のような場所に出る。どうみてもここしか出口はないはずなのに、道でもなく広場でもなく、ただの草ぼうぼうのスペース。不安になりつつも進みゆくと、生垣を曲がったさきに鉄柵があり、向かえの人がたむろしていた。その中にネームカードを見つけ、ドライバーと合流。英語は話せないようだったが、30分離れたヒヴァの街のホテル名を告げて確認。もくもくと地方都市の空いた道を飛ばす。両脇には街区が広がるが、たいした建物もなく、さすがに田舎っぽい。とはいえ、ヒヴァはかれこれ20年ほど前に町ごと世界遺産に指定されている有名な場所なのだ。ディシャン・カラとイチャン・カラという、二重の城壁に囲まれた、古い古いシルクロードのオアシス都市なのである。

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30分も走った頃、突然目の前に異景が飛び込んでくる。薄い茶色の高い城壁がぐるりと続いている内側に、色タイルの塔が見える。ああ、これぞディシャン・カラ。なんとこのようなものであったのか。これまでの人生で初めて見るものだ。泥壁の城郭と何世紀も経た遺物。鳥肌の立つような異様な感覚。やがて車は駐車場に停車し、ドライバーにいざなわれて城郭内に入る。イチャン・カラに入り、歩くこと5分ほどで2日間の宿、マリカ・ヘイヴァクに到着。ヘイヴァクとはおいしい水という意味で、ヒヴァの語源だそうな。この泉がわいたところにヒヴァの街ができたのだとう。

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実はオンラインで個人的に予約をしたのは今回が初。しかもキャパの少ないヒヴァは2月の時点ですでにほぼ満室であった。なにしろ世界遺産だから。地図もなにも確かめず、とにかく取れるところというので予約をしたのみ、その後放置だったので、ホテルの名前さえ確認していない状態。エージェントには「ヒヴァの宿はホテルアジア」と告げていたのだが、出発直前に打ち出した予約詳細をみると「マリカ・ヘイヴァク」になっているではないか。記憶では、マリカはチェーンホテルで、雰囲気も特徴もないビジネスホテル様と読んだので敬遠したはずだった。が、予約時、なにかの事情でhotels.comに直接電話をし、中国人らしいオペレータとやりとり、一度予約したところをキャンセルして別のところを取ってもらった経緯がある。それだから本当はどうだったのか不安だったのだが、ヘイヴァクのフロントマネージャはわたしをみるなり名前を呼んで挨拶をしてくれたのでほっと安心。しかもかなり流暢な英語を話し、携帯を握りしめていたらすぐにwifi?といって設定してくれた。かわいらしい木造りのカギをもらってとりあえず入室。タシケントもそうだったが、変にベルボーイ風の人もいなく、荷物も自分でもってはいるのでチップの心配が不要でラクチンだ。案内された部屋は3部屋しかない棟の1室。白木づくりで新しく、清潔でかわいらしい。贅沢ではないけれどcomfortableである。
相変わらず激しい胃痛と吐き気で具合が悪く、手足が異様に冷たいのでまずは休むことにする。ベッドに身を丸めて1時間ほど眠る。

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目が覚めてなにか食べた方がいいと思い、食堂にいってみる。が、団体がいるようで混んでおり、なかなか給仕がきてくれない。あきらめて帰ろうとするとマネージャが給仕にプレッシャーをかけてくれたので再度座る。なにか消化のいいものを少しと思ったけれど、結局ラグマンとポテトサラダとビールを頼む。半分も食べられず退散。おいしいかどうかもよくわからない。やはり食べられないと人間だめだと痛感。気力も弱る。おなかは普通なので食あたりでもないだろうし、微熱もあってとにかく体が重くて動かない。原因もわからない辛さにめげる。もう帰ろうかとすら思うほど珍しく気弱になる。
部屋にもどってお風呂で暖まり、ひたすら寝るが、何度もうなされ、目が覚め、背中もいたくなって悶えつつ朝を迎える。

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Uzbekistan 青の都 1

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4月25日

寝坊するといけないので前夜から徹夜。4時55分の始発でまずは東京駅、そこから6時始発のバスをひろって成田へ。このところANAにもご無沙汰なので、ひさびさの第1ターミナルである。少し早めの到着のわけはwifiルータなど借りてみようかと思ったから。ところがこれが結構高い。エリア的にウズべキスタンは特に割高のよう。かなり迷って一度離れたあげくやっぱり試しに借りることにした。出発から帰国まで8日間\15000なり(保険その他含め)。海外で携帯を起動させるのは初めてなのでとりあえず勉強のため。
ウズベキスタン航空直行便ではあるが、ラウンジは使えないので適当にすわって持参のパンで朝ごはん。ゆるゆると出国からゲートへ向かう。一番奥の(弱小キャリアはこうだ)ゲートに着いた頃からシクシクと胃が痛み始める。ご存知わたしの胃腸は鋼鉄の強さを誇り、53年の人生で吐いたことは2桁あるかどうか、賞味期限がとっくにすぎたものでもまったく動じない。それなのにテイクオフのころから吐き気がひどくなり、最初の飲み物サービスでも半分も飲めず、きれいとはいえないウズ航空のトイレに何度通ったことか。機内食パスも人生初である。幸い、767には半分も乗客がおらず、空席に移って横になれた。機内エンタメも一切なし。共有モニタすらついていないのもこれ幸い、ひたすら寝た。
最初に座った席の隣には、阪大ボート部OB御一行様のセレブらしきおばさまがおられて、とうとうと子供や孫のエリートぶりを聞かされ、これにも辟易。完全にグロッキーであった。

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フライト9時間。目が覚めて窓の外をみると、一面に雪をいただく山のうねりとその間を埋めるような黒っぽい茶色の土漠。生物の気配などなさそうな荒涼とした光景だ。時々やけに直線の道筋が見えてきて、中央アジア、ウズベキスタン・タシケントに到着した。空港はドカンとしたばかばかしく大きな建物で味も素っ気もない感じだが、立派ではある。降機から歩いてビルに入り、イミグレとうわさの税関に緊張するも、なんの問題もなく拍子抜けするほどするっと通過。あらかじめ現地エージェントにタクシーを手配しているので探すが、ピックアップカードを持った人はビル内には皆無。きょろきょろしながらビルを出ると、外の鉄柵に群がる人のなかにネームカードを発見し無事合流。ドライバーさんは若いおにいちゃんで、訥々の英語で陽気に話してくれる。英語を勉強中なのだという。15分ほど目にはいる建物などを説明しながら老舗のウズベキスタンホテルへ。これまたばかばかしくドデカイ建物で、ティムール広場の真ん前という立地。さっそくチェックインするとレギストラーツィア(ロシア語だとかっこいい。英語だとレジストレーションってつまんない)の為にパスポートを預ける。2hかかるという。何にそんなにかかるんだろう。ウズは外国人はパスポートとレギストラーツィア証明書の常なる携帯が求められる。警官に呼び止められた時にもっていないと即拘束らしい。てなわけで、2h待たないと散歩もできないのか。とりあえず具合もよくないし、初wifiも試してみようと部屋に行く。

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これがまたばかばかしく広い。我が家の1階半分以上ありそうな。スーパーキングサイズとでもいうべき広大なベッドにねころんで、wifiルータをオンにしてみるも拾わない。なぜ。。。とりあえず放置してフロントに電話「パスポートないと外にいけないんだよね」。答え「うちのカードキーを見せれば泊り客とわかるから大丈夫」。ほんとだろうか。やや不安。でも喉も乾いたし、買い出しもかねてとにかく出てみる。出ようとするとロビーに4,5組のウェディング姿のカップル。化粧はかなり濃いが美人揃いである。ガイドでもよく紹介されるように、式ではなくて単なるフォトセッションらしいが、こんなに多数組同時だと、お互い比べざるを得ないだろうと、余計な心配などしてしまう。でも花嫁よりも付き添わされている少女のほうがよほど美しかった。

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愛機CANON EOS7Dを携えて、さっそく曇り空のタシケントの町へ。巨大な橡の並木には灯篭のような白い花がこんもり花盛りだ。広々とした道路、公園、空間に緑があふれるほどで緑陰滴り、草花も丁寧に植えられ手入れされ、感心する。もっと国全体が渇いたところだと思っていたから、これほどまでにみずみずしいとは驚きだ。しかも清潔でゴミも落ちていないし、オレンジ色の制服をきた清掃員があちこちで清掃にいそしんでいる。いい国じゃないか。

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貧相なガイドブックの地図を頼りにブラブラ歩いてスーパーのあるあたりを目指すも、みつけたスーパーは閉店なのか店休なのか閉まっている。こまった。コンビニ的な小売店はまったくみつからず、あるのはバス停に隣接した小さいキオスク。飲みものやタバコ、お菓子しかうってない。なんとか適当な店を、としばらく歩いてもまったく展開はない。疲れてきたので、若そうなカップルに声をかけてみる。なぜなら英語を話す可能性があるからだ。ビンゴ。27歳くらいの男性は流暢に英語を話し、事情をいうと自分もいくから一緒にタクシーでスーパーまでつれていってやるという。しかし、まだ両替もしていない(なぜならパスポートを預けさせられているから)。米ドルではタクシーも乗れまい。しかも一人で帰ってこれる自信もない。お礼をいってあきらめようとしたところ、両替をしてやるという。おぼろげに覚えていたレートで10ドル交換してもらう。それでキオスクに毛の生えたようなファストフード店で、サンドイッチらしきものを買うことにする。買っているとうしろから、くだんの男性が追いかけてきて、英語のわからない店主にあれこれ伝えてくれ、ジュースとナッツも合わせて買うことができた。お礼をいって写真をとってあげてわかれる。

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またブラブラとホテルへもどると、なにやら奇妙な音がぶーぶーうなっている。見るとそれはホテルの入口で民族衣装をきて演奏中のラッパ隊であった。4人4本、、首が2mほどありそうな金色の細身のラッパを上に向けたり下に向けたり振り回したりしながら、とにかくブーブーと吹き鳴らす。音程は全くなし。強弱もなし。なんというか、騒音に近い感じだが、めでたいものなんだろう、そのうちにVIPらしき人々が到着。出迎えのおじさん軍団が挨拶をしているところへ、着飾った男女が入っていく。なんだかわからないけど面白く、いっとき見物をしてから部屋へ帰る。どうやら伝統楽器のようであった。

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ずっと何も食べていないので、すこしサンドイッチを齧るが、これが当然羊である。胃の痛い体調にはいまひとつなのだ。ナッツは、と思うとこれまた妙なスパイス臭と酸味のあるナッツで好みないのでパス。ジュースで食いつなぐ。あいかわらずwifiはつながらないのでお風呂にはいることにする。お湯はまあまあたっぷりでた。冷えた体を温めて記録を付ける気力もなく寝ることにする。

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